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妄想の垂れ流し
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克哉に関して、「記憶の果実」でノーマルの人格と眼鏡の人格が生まれるきっかけのエピソードがあります。
ああいう体験って、意外と万人に起こりうる、もしかして「よくあること」で、誰しも自分自身の体験と重ねあわせ共感できる事じゃないのかな。まぁあそこでMr.Rが登場する事で、より端的に症状(笑)が現れ、フィクションの世界に飛び立てる訳ですが。
では、太一の子供時代はどうだったんだろう。
そう考えた時ふと思ったのですが、本来の太一の人格ってノマ克哉のようだったのではないか、という仮説。持って生まれた性質ってあると思うんだけど、太一は実は幼少の頃はすごく人見知りの激しい、引っ込み思案な子供だったのではないか。人の出入りの多い環境。その人達もかたぎではなくて。そんな人物をじっと見つめ観察しているような子供なんです。(それに対し、克哉は誰とでも如才なく付き合え、大人相手にも臆する事無く対等に会話の出来る、いわゆる「子供らしくない子供」です)
でも太一の周りの環境はそれを許してはくれない。長男という目、祖父の存在。太一を取り巻く大人の思惑。
そして、太一自身の「子供の世界」で味わう屈辱。きっと「あの子と遊んじゃいけない」なんていうあからさまな拒否だって四六時中だったはず。田舎だし。
そんな中、太一が潰されず生きていくには「手段」が必要だった。それが「馬鹿になる事」。「なーんにも考えていない能天気になりすます事」。
だから太一が言う「頑張らないほうがいいっすよ」って言葉は自分への戒めの言葉なんです。「戦う事を放棄しておけ。負けるが勝ちだろう?」っていう。
マスターはそんな本当の太一の性分をよく理解している。もしかしたら太一はマスター似なのかもしれないですね。
実際太一にはそうした「眼鏡の力を借りなくとも、もう一つの本来の自分と違う人格を演じきれてしまう度量や知性があった」のだと思いますが(ま、もともとの血筋もあるだろうし)、でも1番の目的ははやり「傷つく事から身を守る術」だったのだと思います。(この辺が克哉と正反対の道を辿ることなんですよね。克哉は「傷つけることを避ける術」として『愚直である事』を選択したんだから)。
そう考えると、太一が克哉が必要以上に自分を責め、傷付いていくのを目の当たりにして、自分が捨て去ろうとした自分を見るようで苦しかったんじゃないかな。「どうしてあなたはそんなにまでして自分を捨てないんだ」というジレンマ。二人が知り合った頃の会話で太一はその辺を一生懸命レクチャーしていますね(笑)。
「頑張らないほうがいいっすよ」「もっとへにゃーっとしてた方がいいっって」それは、自分自身の体験談。
ほんとは太一は人一倍努力家なはずです。ギター独学でひたすらに練習している太一が目に浮かびます。

なんか、そんな太一のバックグラウンドを想像したら、自分の中ですごく合点がいきました。
前になんとなく自分の中のイメージで書いた「虫籠」の太一は、きっと受け止めきれないほどの裏切りを受けた直後だと思う。子供の残酷さの怖いところは相手を傷付けることに何の躊躇も持たないところ。
受け止められる許容量を超えた傷が、昆虫への虐待(子供はよくやる当たり前の事だけど)って行為に繋がって、しかもそれを観察し続けるような行動を取らせた・・・んです(ってここで)


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